カテゴリー「(16) 今月の1冊(ひのくにノ本棚)」の73件の記事

2017年2月17日 (金)

「幸福」を問うことにどんな意味があるのか?

「哲学とは・・・自説の正しさを疑いながら少しずつ考えをつないでいくものです」(P. 8)

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幸福はなぜ哲学の問題になるのか [ 青山 拓央 ]
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 この書籍のタイトルは秀逸だ。そう、なぜ幸福は哲学の問題になるのか? その問いにどんな答えを提出したところで、批判を避けられないに違いない。そこで著者も、この問いを次のように問い直す。「なぜ私たちは他者の幸福論に対して、そうした反発心を抱きやすいのでしょうか」と。

 幸福論が反発を抱く一つの理由は、幸福と人生が直結しており、特定の幸福論を述べることが特定の生き方を規範化するからでしょう。つまり、語り手にその自覚がなくても、特定の幸福論を称揚することが他の幸福論を否定するものとして―先述の「啓蒙」として―受け止められるからでしょう。(P. 100)

 幸福について書かれたこの文章は、幸福を違う単語に置き換えても、それが人生に直結しているものであれば何にでも当てはまる。それが趣味や仕事、ライセンスでも。そして、その反発を受けるであろう言説は「~すべきである」と論じられる。そういう構造を呈している。それでは人は動かない。

 何事にも「適切な粗さ」というものがある。著者は漁に使う網の選別に例えてこう話す。

 網で何かを捕るときには、獲物に合わせて網の目の大きさを変えるべきであり、もっとも細かな目の網がつねにもっとも優れているわけではありません。重要なのは網の目の適切な「粗さ」であり、さまざまな経験を経て、倫理的知識を捉えるのに適切な「粗さ」を知ることが、いわゆる年の功なのです。(中略)もちろん、経験に裏付けられていれば乱暴な主張でもよい、というわけではありませんが、逆に、経験に裏付けられていない主張は実践的場面でしばしば網の目が細かすぎ、砂利まですくってしまいかねません。(P. 36-37)

 そう、僕ももう中年なのだから、少しは年の功なるものを発揮しないといけない。「『網の目』の適切な粗さは人生経験によって見極められる」のだから。

 ~すべきである、といった論調の話題は“重い”話であることが多い。よって、個人ではどうしようもない。今の生活を捨てなければ関与できそうにない。そして、変わるとも限らない。その選択は“強い一回性”を持ち、人生の方向を変えてしまう。だから、具体的な人生と直結してしまった幸福は、一般論では語り得ないわけだ。

 「軽さには軽さの役割があり、軽さが人生の大部分を作る」
 「自分には必要のないものがあると知る」
 「重い事実について考えることが、つねに重要とは限らない」

 こういったことが人生には必要であると言いながらも幸福について人は問わずにはいられない。例えば、人生が幸福であったと、人生のどの時点で決まるというのか、と。

 しかし、人生を作品として見るとして、それを時間的な物語性をもった作品と見るべき必然性はあるのでしょうか。人生を画廊のようなものとして見て、人生の個々の場面を、画廊のまったく別々の画のように鑑賞することは不可能でしょうか。もしそのようなことが可能なら、人生は無時間化された作品の集まりから成るのであり、人生のなかの一つの場面が、前後の物語の力を借りない輝きをもつことがあるでしょう。切り取られたある瞬間の場面が、人生の全体と関係なく――人生の一部としてではなく――まさにその瞬間にのみ存在する輝きを、じかに所有することが。(P. 189-190)

 人生の中に、人生の一部としてではない、人生の切片としての幸福や不幸、そういうものは確かにあるだろう。いまこの瞬間を大事に生きる、という意味でも素晴らしい指摘ではある。しかし、そうは簡単に割り切れまい。なぜなら幸福は具体的な人生と直結しているのだった。ゆえに、本当の幸福はどれなのか、といった議論に著者は加わらない。

 そして、「家族的類似性」という概念をきっかけに考えを深めていく。

 「幸福である」多くの事例を示すことは「幸福」の立派な説明であり、・・・そのすべてに共通する「幸福」の本質を見つける必要はないのだ、と。
 とはいえ、ただ「家族的類似性」と言うだけでは、ほとんど答えになっていないのは事実です。それは新鮮な概念であり物事の見方の力をもちますが、しかし、細部を埋めなければ強力すぎて役に立ちません。(中略)重要なのは、それが無意味な――適当に集められたのと変わらない――集まりではなく、有意味な集まりであることをどう説明するか・・・(P. 218-219)

 ということは結局、人生に意味を与えるのはじぶん自身、じぶんの経験やその他の事例といったものにどう説明をくわえるのか、ということになるのか? 

 そこで、幸福を立体構造として捉えていく。幸福とは「何か」、そして「なぜ」幸福になるべきなのか? さらに「なぜ」に「なぜ」をぶつけて位置づけていく。そうして、一階には「構成要素」、二階には「なぜAであるべきなのか」「なぜBであるべきなのか」、三階では「なぜ一方を優先するのか」という立体構造が出来上がる。ここで僕たちは常日頃、三階の「いま手の届く具体的なアイテムがつねに介在している」問いに対峙していることに気が付くことになる。

 そのうえであえてひとことで述べれば、幸福とは、先の立体構造における多数の「共振」の集合です。快楽だけでも欲求充足だけでも、そして客観的な人生のよさだけでも、幸福は得ることはできません。ある一つの行為選択が、立体構造の複数の問いに同時に答えること。つまり、一階における「何」の問いから、二階、三階での「なぜ」の問いまでもが、共振のもとで一挙に答えられること。幸福の基礎にはこれがあり、もし、それを積み重ねていけたなら、「幸福な人生」と呼んで差し支えないでしょう。(P. 248-249)

 それでも人は、あったであろう「他の諸可能性」と比べることで不幸となり得る。いま現に生きているこの世界だけが現実なのだ。その当たり前すぎることを認識できないとき、人はいわば「錯覚」を現実と捉え、共振を引き起こすことができないのだろう。
 

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2016年12月 2日 (金)

承認不安から脱出するためには?

「現代は承認への不安に満ちた時代である。自分の考えに自信がなく、絶えず誰かに認められていなければ不安で仕方がない。ほんの少し批判されただけでも、自分の全存在が否定されたかのように絶望してしまう、そんな人間があふれている」(P. 8)

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「認められたい」の正体 [ 山竹伸二 ]
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 人間はなぜ認められたいのか? それは「人間のあらゆる行為の基底にある欲望、まさに人間が人間であるがゆえの欲望である」からだ。承認への欲求というのは、価値ある自分への欲望であり、それは生きる意味を追い求めることでもある。

 しかし、他者からの承認を必要以上に追い求めると、自分の自由を抑圧してしまい、自己不全感を感じるようになってしまう。

 社会共通の価値観が失われたことは、ある意味では自由の可能性を拡げたし、もはや自由は社会を変革して勝ち取るようなものではなくなった。しかし同時に、周囲の承認を得るための基準も見失ってしまった。そのため多くの人々は周囲の人間に同調しがちになり、過度に気を遣うあまり、自由であるはずなのに一向に自由を感じることができない。自由という大海のなかで羅針盤を失い、さまよい続けている(P. 157-156)。

 自由な時代になったがゆえに、自由を感じることができないとは何とも皮肉な結果だ。承認不安から脱出するためには「自由への欲望」も考慮する必要がある。そうでなければ根本解決には至らない。

 では、そもそも自由とは何なのか? それは「自分の意志でやっている、という納得感」であり、「自己決定による納得」である。そして自己決定するためには、まず自分自身の不安や欲望といったものをよく知る必要がある。

 自分の承認欲望が自覚される際、私たちはそれを「無意識」という言葉を用いて思考し、表現することが少なくない。
 そもそも、「自分は無意識に○○だったんだな」と思ったとき、人はいままで気づかなかった自分を発見し、自己像(自分自身についての理解)を刷新しているのだが、それは結局、自己了解が生じていることと同じである。(中略)「無意識」とは自己了解の後に想定された観念であり、無意識が実際に発見されるわけではない(P. 192-193)。

 こういった自己への気づきが自己了解を生む。この自己了解こそが生きる意味と自由の意識を両立させるための必要条件となる。

 「自己決定ができたときのみ、自由と承認は両立する可能性を持つ」(P. 180)

 ここまでは自分だけの問題とも言える。つまり、自らの行動の指針を、羅針盤を自分の中に持つこと。そして、それに沿って行動することが自由である、と。しかし、問題はその先にある。現代は多様な価値観の時代であり、相対主義とニヒリズムの蔓延した状況にある。つまり、自己了解・自己決定のもとに行われた行動が必ずしも承認に繋がるとは限らない、ということだ。こうしたところから、コミュニケーション能力の重要性が説かれる理由が伺える。

 確かにコミュニケーション能力は大事だが、そこにとどまっていては承認を確保できたとしても自由を確保することが難しくなる。この状況を打破するためには「自己了解」だけではダメなのだ。

 承認欲望のほうが真実であり、利他的な動機は偽り(偽善)にすぎない、と言いたいわけではない。二つの動機は分かちがたく結びついており、両者相俟って価値の一般性、普遍性を求める気持ちが強くなる。人間は他者の承認や批判を繰り返し経験することで、普遍的な価値それ自体(「事そのもの」)を求めるようになる。(中略)それは承認欲求のような利己的な動機だけでなく、こうした利他的な動機の相乗効果によって強化されるのだ。
 このようにして、「一般的他者の視点」から自分の行為や知識・技能、作品などの価値を確信できるなら、周囲の承認が得られなくても自分の存在価値を信じることができる(P. 112-113)。

 「一般的他者の視点」は、「さまざまな他者を想像し、彼らを考慮に入れた上で、彼らが同意するような判断を見出そうとする努力」や「さまざまな価値観を理解し、なぜそのような考え方をするのか、その理由(動機)を考える」ことで身につくものであり、一朝一夕にはいかない。しかし、信念対立を乗り越えるためにはこれしかないのではないだろうか。

 現在、至るところで信念や価値観のぶつかり合いが生じている。まずはこの土俵に乗らないこと。そして、なぜそのような状態になっているのかを理解しようと努める。その上で、「メタレベルで一般性のある価値」を求めていく。これしかない。それはその時にそうとわかるようなものではなく、いずれ何とはなしに理解されるような類のものなのだろう。

 たぶんに抽象的になってしまっていることは重々承知しているが、こういった問題にはおそらく明確な答えなど存在しない。書籍などに答えを求める態度がもうすでに間違っていると思うのだ。それは行動の先に、行動したものの前に開けてくる。そういうものに違いない。
 

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2016年11月 4日 (金)

「知性がなければサッカーはできない」

「何を、どう考えるべきか。
 それさえ明確に意識できれば、答えはすでに出ている。
 あとは具体的にどうすればいいいかだけだ」

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急いてはいけない [ イビツァ・オシム ]
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【ノーマルに生きる】

 どうしてあなた方はいつも同じ質問をするのか。自分たちの弱さを告白し、他人に答えを求める。そんなふうに考えること自体が、弱さに正面から向き合っていない証拠だ。(中略)もう少し自分に自信を持つべきだ。すでに進歩しているではないか。ノーマル(普通であること。正常であること)であり続けるべきだ。かつてあなた方がつねにそうであったように。
 あまり過度な爆発(爆発的な進歩や変化)を期待するべきではない。多くのことを学んで、爆発ですらノーマルなものとして実現する。

 (イビチャ・オシム『急いてはいけない』ベスト新書 P. 20-21)

 「ノーマル」オシム哲学の鍵概念。しかし、僕らはいろんなことに急かされていて、ノーマルに生きることが難しくなっている。だからオシムは、タイトルにもあるように、「急いてはいけない」とアドバイスを送る。さらに、急ぐと潰されてしまうとも。

 ノーマルに生きるためには自信を持たなくてはならない。そのためには努力をしつづけなければならい。そして、プレーをしなければ自信というものは得られないし、すべての分野において最高になる必要はない。

 では、その努力はどのようになされるべきなのか。急かされていても、まずは立ち止まる。そして、落ち着いて考える。何を、どう考えるべきか、を。

【コレクトでありつづける】

 もうひとつは「正しい(コレクト)」とは何かという問題がある。
 正しいと思い込むのと、現実に的確に行動するのとはまったく別のことだ。というのもすべてが「正しく」なり得るからだ。
 監督は正しい練習を実戦する。
 フィジカル、テクニック、戦術に関して、監督は正しく練習を行う。
 内容も実践方法も、また目的も意図も、多かれ少なかれ正しい。
 だが「正しい」というのは、できる限り最高の仕事をすることであり、それこそが「正しい」の意味だ。
 より具体的には、選手やチームに必要なことを的確に行うことであって、「正しく」働くことではないし、選手が好まないことを「正しく」行わせることでもない。

 (イビチャ・オシム『急いてはいけない』ベスト新書 P. 95-96)

 「コレクト」オシム哲学のもう一つの鍵概念。つねにコレクトであることもまた難しい。コレクト(適切)に対応するということは一人の問題ではないからだ。それは環境に左右される。コレクトでありつづければ、現実に的確に行動できれば、必ずいい雰囲気が作り出せる。それはノーマルでありつづけるための自信や不断の努力へとつながるはずだ。

 そう、正しいというのは、思い込みではなく、「できる限りの最高の仕事」を提出すること。だから、それは仕事によって評価されるべきものなのだ。

【ディテールを保存する】

 私が思うにサッカーとは唯一無二の「氷の塊」であり、他に類のないオリジナルなひとつの人生だ。サッカーのすべての出来事、人生で起こるすべての出来事は、この氷の塊の中に見ることができる。氷の中に、社会の中の自分のイメージを見いだせる。自分が語ったすべての言葉、待ち望んでいるすべてのものとともに。それらは決して避けて通ってはならないものだ。
 言葉も思いも氷の中で結晶化している。だから、それぞれのテーマごとにカットされたビデオテープを頭の中に持つべきだ。それぞれのビデオテープに、必要なものを映し込んで保存する。経験をそこに保存する。そして必要なときに取り出して見る。ディテールを保存しておけば、何かあったときに少なくとも確認することができる。

 (イビチャ・オシム『急いてはいけない』ベスト新書 P. 195)

 なぜ、うまくできないのか。いいプレーが生まれないのはなぜなのか。それはディテールがあいまいなままだからだ。ディテールがあいまいなままでは、やるべきことをしっかりと詰めることなどできない。抽象的な目的のままでは、具象の世界では何が起こるかはわからないからだ。どのように具現化するか。そのとき参考にすべきものは経験であり、教えである。しかし、どちらもディテールを取り出して確認できるように保存しておかなければならない。

 ジャーナリズムにおいて重要であるのは、同じことを繰り返さないことだ。(中略)異なる論理、異なる言葉で語られるのは、そのテーマに魅入られているからであり、テーマを進化させているからに他ならない。真摯にサッカーを追いかけている証拠だ。(中略)自分の経歴を誇示するつもりはないが、そんなふうに生きていかねばならないし、考えていかねばならないと思っている。他の人々のために働き始めねばならないかも知れない。未来のために。未来は彼らのためにあるのだから。

 (イビチャ・オシム『急いてはいけない』ベスト新書 P. 196)

 僕らは考え、決断し、行動する。しかし、自分がしたことをもう一度考えてみるということをあまりしない。だから、記録する。記録することは振り返ることでもあるからだ。そして、それを残し、公開すれば、未来のためになるかもしれない。だから、続けていこう。

 「チームメイトのためにスプリントをする」「誰もがチームのために走る」サッカーとはそういうもので、それを理解して始めて、コレクトでありつづけることができる。立っているだけでは何も始まらない。そういう「知性がなければサッカーはできない」のだ。
 

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2016年9月 2日 (金)

文章を書くときと読むとき、そしてしかるべき距離について

「結局のところ、桜の価値は、咲こうとする意志にではなくて、散る覚悟に求められる」(P. 67)


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超・反知性主義入門 [ 小田嶋隆 ]
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 最近、SNSの利用に制限をかけている。手持無沙汰なときにTwitterのタイムラインをスクロールすることはままあるけれど、積極的な発言をすることはなくなったし、フェイスブックも週に1回くらいしか開かなくなった。現実が充実しているとか、そんなことではない。僕の考えが揮発してしまうからだ。垂れ流した考えは回収されることなく、また浮かぶとも限らない。以前はすべてノートに書き付けていた。が、SNSで発信したものをわざわざノートに収めるようなことはしない。二度手間だし、発信したことで満足してしまうからだ。さらに、次のような不安もある。

 何かを思うことと、それを口に出すことの間には、しかるべき距離がある。当然の話だ。アタマの中で考えたことを、その場ですべて声に出して良いのは、幼児と独裁者だけだ。(中略)もしかすると、考えることと発言することの間の距離(ないし時間)を喪失したことが、われわれがデジタルコミュニケーションツールを手に入れたことによって獲得した副作用のうち、最も致命的なものなのかもしれない。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 30-32)

 致命的な副作用。そう、ネット上でのトラブルの元はそのほとんどがこれなのだろう。また、しかるべき距離がなければ、想像力を発揮することもできない。そして、アイデアのシーズとも言うべき塊が雲散してしまうのも同じ理由による。時間というしかるべき距離がないために、タイムラインが流れていってしまうために、その塊はついに発酵することがない。これはじつにもったいない、と自分のノートをふりかえったときに気がついたのだ。

 アイデアがある程度の形になり、これはおもしろい、と思うものを記事にする。この時点で気をつけていることがある。意識していても、強力な後ろ盾や虎の威的なものがあったときにはついつい忘れてしまう。それは啓蒙的な記事に終始してしまうことだ。そして、しまったと後悔することになる。

私が啓蒙的な運動をしている人々に反発を頂くのは、彼らが、人々をバカにしているように見えるからだ。彼らは、情報を告知することで世界が変えられると思っている。告知と宣伝で、人々を動かせると考えている。その前提で私はうんざりするのだ。なぜなら、彼らの前提が暗黙のうちに語っているのは、自分たち以外の人間が、正確な情報を知らないという認識だからだ。彼らは、そういう無知な大衆に福音を知らしめることが、世界の様相を改善するための第一歩だと信じている。その裏には、人々が無知で、愚かで、享楽的で、近視眼的だという思い込みがある。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 174)

 そんなこと思ってはいない、そうはいってもこの手のことは読み手がどう感じるかなのだ。出来のよい記事が書けた、といった自信のあるときにほど気をつけないといけない。

 読み手はじつに多様な環境にある。にもかかわらず、主語を一つにして啓蒙的な情報活動をしてしまっては、そう思われても致し方ない。日本語の特徴の一つに、主語の省略がある。そして、省略された主語の有力な回答は“私たち”だ。だから、その“私たち”に混ざりたくない、と思われないようにメッセージを届ける。それは記事の内容の重要性とはなんら関係がないことなのだ。

 だが、とも思う。難しい問題に対して、結局のところどうなんだ、お前の言いたいことは何なのだ、答えになっていないのではないか、といった意見には僕は賛同しない。

 でも、私に言わせれば、登録無料のウェブマガジンの中に「答え」が書かれていると思っている時点で、その人間はビジネスパーソンとしてはほぼ使いものにならない。もちろん、…役に立つ記事が無いわけでもないし、目からウロコの落ちるタイプのテキストが皆無だというのでもない。

 ただ、文章を読む際の基本姿勢として、答えを探しに行くタイプの読み方は、根本的に間違っているぞ、ということだけは申し上げておきたいのだ。文章は楽しむために読むものだ。楽しく読んで、面白く時間をツブせればそれで十分。そういう中で、結果として、後になって振り返ってみて、あの時に読んだあの文章は、自分の中でこんなふうに役立っていた、というケースがあるかもしれない。

 と、そういうお話なのであって、ページを開く前の段階から、何か役に立つことを取り入れるために本を読むみたいな態度は、明白な間違いではないのだとしても、人としてあさましいマナーだと思う。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 250-251)

 まあ、こういった話は通じない人には通じない。あなたがお金を払って手に入れた書籍に対しての書評ならば、話は別だ。著者は対価に、タイトルに見合うものを提供する義務があるだろう。しかし、無料の文章を読んで、その文章は失格だ、というのは当たらない。

 ましてや、新しい情報がなければ意味がない、というのもどうかしている。僕らの世界の基礎的な部分は「変わらないこと」によって保たれ支えれているのだ。

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2016年7月29日 (金)

主人公が持ち歩いているモノは?

「部屋を出る時、拳銃の中から弾丸を一つ、抜き取った。私はそれを、自分の守りのように、取っておこうと思った」(P. 173)


銃 [ 中村文則 ]
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 「昨日、私は拳銃を拾った」この最初の一文が僕をこの物語に引き込むと同時に、僕はある小説を思い出す。夏の葬列 [ 山川方夫 ]に収められている短編『お守り』だ。

 『お守り』に登場する関口はダイナマイトを所持している。関口は言う。「ああ、なんという画一性!」「ぼくは任意の一点なんかではない」。そして、他の誰でもない自分をつかまえるために手に入れたお守り、それがダイナマイトだった。

 「みんな、なんとかかんとかいっても、規格品の生活の外に出ることができまい。でもおれは、いざという気になりゃ。いつでもこんな自分もお前たちも、吹きとばしてやることができる・・・・・・こっそり自分がそんな秘密の力を握っていること、考えあぐねた末、それがやっとみつけた僕の支えだったわけさ。つまり、これがぼくの特殊性さ」

(山川方夫『夏の葬列』集英社文庫 P. 43)

 特殊性。そう、関口は積極的にそれを手に入れる。しかし、じぶんそっくりの人間が同じくダイナマイトを持っていたことを知り、それはもうお守りでもなんでもなくなってしまう。

 これに対し、“私”は偶然、銃を手にすることになる。偶然もたらされた銃、その「吸い込まれるような存在感」が“私”に「畏怖の念」を与える。そして、「可能性を手中に収めたこと、その刺激の固まりこそが重要である、実際にそれをするかどうか、したいかしたくないかは問題ではなかった」はずだった。だが、その非日常性が明らかに“私”を変えていく。

 モノを所有することで、どちらの話も主人公が変わっていくのだが、その変わり方が違う。銃はさらに、“私”の内部へと深く浸透していく。

拳銃は私に、早く撃つことを要求した。拳銃は私の全てだった。拳銃のない私は無意味であり、私は拳銃に激しい愛情を向けていた。が、拳銃は、私に冷たかった。私がその黒に覆われていくことにも、拳銃には関心がないような、そんな気がし、私は発狂しかけた。そして、私は拳銃を使っているのではないのだ、と思った。私が拳銃に使われているのであって、私は、拳銃を作動させるシステムの一部に過ぎなかった。

(中村文則『銃』河出文庫 P. 168)

 サルトルの「実存は本質に先立つ」を彷彿とさせる。拳銃は殺人という思想を内包する。そのためにある。一方、人間はまず実存し、あとになってはじめて人間となる。自ら作るところのもの以外の何ものでもない。ここから選択、自由、責任、孤独、不安といった派生概念が生まれることになる。

 “私”は選択したはずだった。そして、「安堵と悲しみの入り混じった、不思議な嗚咽」をもらし、泣く。銃を捨てることを選択した“私”は「自分が存在しているということを、よく噛みしめるようになった」。“私”はようやく人間になろうとしていたのだ。だが、自由をはき違え、責任を逃げにすりかえようとして、この小説は終わる。

 「おかしいな」「おかしいな」というフレーズが余韻とともにフェードアウトしていく。

 読み終えて、こうも感じた。ダイナマイトと銃。なんだか資格と崇拝の話のようだ、と。そして、堀江敏幸の言葉を思い出す。「個性的たろうとする者は、要するに凡人なんだ」。僕ら凡人の悲しい事実。

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2016年6月 3日 (金)

「未来からのまなざしを受けつつ仕事をする」

「結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」(P. 9)


しんがりの思想 [ 鷲田清一 ]
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【市民の無能力化とできること】

 こういう仕組みが完備してゆくことで、市民生活において逆にクオリティを大きく損なったものがある。いうまでもなく、≪いのちの世話≫を自力でおこなう能力の喪失である。(中略)ましてや災害時の排泄物の処理方法、雨水を飲料水に変える方法を知っているひとはほとんどいない。災害で食材の流通が止まったときも、じぶんたちで工夫して野山の植物を調理するのではなく、配給を待つだけだ。
(中略)
 では、トラブルが起こったとき、サービス劣化したときにわたしたちにできることは何か。皮肉にも行政やサービス企業の担当者にクレームをつけることだけなのである。

(鷲田清一『しんがりの思想』角川新書 P. 62-65)
 
 熊本震災、本震の直後、実際にこの状況を体験することとなった。そして僕らは無力だった。断水が続き、結果、給水に救われる。給水所に並ぶこと2時間、一家族あたり1回4Lの水を手にした。

 行政の職員が僕らの持参した容器に水を入れてくれる。彼らは休むことなく、淡々と作業をこなしていた。多くの人は感謝の言葉を告げていたように思う。だが、中には「まだ、水道はなおらんのか!」とクレームをつける人間もいたのだ。職員は「すみません。がんばっていますので、もう少しお待ちください」と大人の対応だった。でも、謝る必要なんて、これっぽっちもない。災害なのだし、この状況は僕らが選択してきた結果なのだから。
 
 
【石工の矜持】

「ほめられなくても自分の気のすむような仕事はしたいものだ」とも、この職人は語っている。この言葉を承けて、宮本はこう書きついでいた。「誰に命令せられるのでもなく、自らが自らに命令することのできる尊さをこの人たちは自分の仕事を通して学びとっているようである」、と。
 石工は、田舎を歩いていて見事な石の積み方に心打たれ、将来、おなじ職工の眼にふれたときに恥ずかしくないような仕事をしておきたいとおもった。このとき石工のこだわりはじつに未来の職人に宛てられていた。これに対して、目先の評判や利害ではなく、何十年か先の世代に見られてもけっして恥ずかしくない仕事を、というそのような矜持をもって仕事に向かうひとがうんと減ったのが現代である。未来世代のことをまずは案じる、そういう心持ちをほとんど失っているのが現代である。
 
(鷲田清一『しんがりの思想』角川新書 P. 9)

 生き残ること、利益を上げること、どちらも大切なことではある。でも、だからと言って、この石工のような矜持を失ってはならない。目の前のことだけに追われていてはいけない。仕事の一部は未来の薬剤師のために。

 常に最高の自分を差し出すべく努力をしていく中で、一つだけ忘れてはならない観点がある。それは、目の前の仕事だけに没頭してしまわずに、常にその一部を未来の薬剤師のために捧げてほしいということだ。今、自分のことだけを考えるのではなく、未来の自分、未来の薬剤師のための種を蒔くのである。それを絶対に忘れないでほしい。

(岡村祐聡『新・服薬ケア概論 エッセンシャルズ』服薬ケア研究所 P. 89)
 

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2016年5月 6日 (金)

「あまり思い詰めないほうが良いこともあります」

「今の技に不足があるのは、そこに至る技、そのまえの技に因がある」(P. 106)


フォグ・ハイダ [ 森博嗣 ]
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【少しくらいの濁りはあった方がいい】

 「坊主の私が言うのも、だいぶ筋違いと思いますが、少しくらいの濁りは、あった方がよろしい。この世にあるものは、いかなるものも、必ず無駄なものが混ざっております。なにも溶けていない水はない。なんの匂いもしない風もありません。それでも、それを綺麗な水といい、澄んだ空という。おそらくは、正しい剣、正しい刀も、そのようなものと想像いたします」

(森博嗣『フォグ・ハイダ』中公文庫 P. 361)
 
 どんな仕事でも、真剣に対峙すればするほど、悩み思い詰めるものなのだろう。そんなときに思い出したいフレーズだ。理想には遠く届かなくても、綺麗な水であり、澄んだ空であるならば、きっと方向性だけは間違っていない。ただし、そう判断するのは他者であり、じぶんではないことだけには留意したい。
 
 
【人生には理由などない】

 もともと、都へ行くつもりなどなかった。カシュウが言い遺したのは、山を下りろというだけのことである。山は下りた。山を下りたところには里があって、その里から続く道は、街道へと繋がり、たまたま西へ向かって歩くことになった。そして、道すがら、大勢の者が、どちらへ行くのかと尋ねてくる。面倒なので、都へ行くと答えた。そう答えているうちに、本当の目的になりつつある。それだけのことなのだ。どうしても行かなくてはならない理由などまったくない。
 
森博嗣『フォグ・ハイダ』中公文庫 P. 382

 身も蓋もないかもしれないが、これが人生だ。例えば、僕が薬剤師で生きていかないといけない理由などまったくない。前職であるMRも楽しかったし、向いていたと思う。家族と趣味の都合で薬剤師になった。そして、後輩とつるんでいるうちに後輩にはみっともない姿を見せるわけにはいかなくなった。ただそれだけのことが今の活動へとつながっている。
 

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2016年4月 1日 (金)

大事なものほどわからない

大衆人とは? その典型こそ僕らなのかもしれない。
「自己を迷える者と自覚しない者は、必然的に自己を失う」(難破者の思想)



それは全能でありながらその日暮らしなのである。大衆人とは生の計画をもたない人間であり、波のまにまに漂う人間である。したがって、彼の可能性と彼の権力がいかに巨大であっても、何も建設することがないのである。

(オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫 P. 67-68)

 大衆支配の予言の書ともいわれる『大衆の反逆』。本書での大衆人の定義がこれだ(この対極に位置する人間のことを「少数者」もしくは「真の貴族」と表現している)。能力はあるにもかかわらず、自分の方向を見出すことができない。つまり、行動することがない。

 この本を読んで思い出すのは、オルテガより前に大衆社会の予言したニーチェだ。

 「(前略)羊飼いはおらず、群れが一つあるだけ! 誰もが平等を望み、誰もが平等である。そう感じない者は、自分から精神病院に入る。
 『以前は、世の中がみんな狂っていました』―そう言って、お上品な連中がまばたきする。
 賢いので、起きたことはなんでも知っている。だから嘲笑の種が尽きることはない。口喧嘩もするが、すぐに仲直りする。―でないと、胃の具合が悪くなる。
 昼のお楽しみがある。夜の楽しみもある。だが健康には敬意を払っている。
 『わたしたちが幸せをつくりだしたのです』―そう言って、最後の人間がまばたきする」―

 (ニーチェ『ツァラゥストラ(上)』光文社古典新訳文庫 P. 30-31)

 この新訳では「最後の人間」と表現されている(以前読んだ他の翻訳では「末人」とされていた)、これが「大衆」だ。大衆は全能であって、なんでも知っているのに、何かをなすことはない。そして、すべてを煩わしく感じるから、平等を欲しているのだ。

 こういった警句に触れ、大衆にはなりたくない。そう感じる。それは悪いことではない。だが、大衆に対して嫌悪感を抱くようなら危ないかもしれない。なぜなら、大衆人には「大衆は大衆が大嫌い」という特徴があるからだ。

 わたしたちの社会は、たしかにニーチェが予言したとおりの大衆社会となりました。
 ただし、一点だけニーチェの予言ははずれました。それは大衆自身が「ニーチェ主義者」になってしまった「ニーチェ主義的大衆社会」になってしまったということです。まさかニーチェも、自分の説いた「大衆蔑視」の思想が、これほど大衆社会で「受ける」とは思っていなかったでしょうね。
 大衆は大衆が大嫌い。
 それが「ニーチェ主義的大衆社会」のきわだった特徴です。
 (中略)
 ある理論の批評性は、その理論の信奉者が少ないという事実に担保されているんです。

 (内田樹『死と身体 コミュニケーションの磁場』医学書院 P. 181-183)

 日本ではニーチェが受けた。そして日本にはニーチェ主義者がいっぱいいる。自分こそは超人である、と思っている大衆が大衆を嫌っている。

 また、オルテガは「今日の科学者こそ、大衆人の典型だ」とも言っている。

 歴史上前代未聞の科学者のタイプが現われた。それは分別ある人間になるために知っておかなければならないすべてのことのうち、一つの特定科学だけしか知らず、しかもその科学のうちでも、自分が積極的に研究しているごく小さな部分しか知らないという人間である。

(オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫 P. 157)

 その結果、大事なものほどわからないものなのだ、といったことが科学者や専門家には理解できない。そして、ただ科学に没頭するのは逃げである。なぜなら、科学の対象は常に抽象的であって、抽象的なものは抽象がゆえに明晰だからだ。

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2016年3月 4日 (金)

積極的な待機から「新しさ」を絞り出す

「マイナ故に自由なのだ」(P. 117)
決してマイナではないのだが、それでも自由でありたい。

作家の収支 [ 森博嗣 ]

作家の収支 [ 森博嗣 ]
価格:820円(税込、送料込)


【出版社の「半お墨付き」】

・・・、広報活動に努力を惜しまなければそこそこの宣伝効果は見込めるだろう。なにもなかった時代に比べれば、である。ただ、新人で誰も名前を知らなければ、たとえネットで発信しても見向きもされない。ネットはそれほど普及しすぎてしまった。もう「普通」のメディアになったということであり、違いはただ、発信に費用がかからないというだけだ。効果は今となっては薄い。それが現実である。

(森博嗣『作家の収支』幻冬舎新書 P. 72)
 
 とくにネットの世界は玉石混交の情報で溢れかえっている。ゆえに発信した情報が誰にも届かないことがある。手紙を入れた瓶を海に流すように。だからといって、発信という行為そのものが無駄というわけでは決してない。誰も見ることがない日記とは異なり、誰かが目にするかもしれない発信は、本人の成長にとっても価値がある。

 アマチュア作家にとって、なによりも欲しいのはリンクなのだ。つまり、宣伝である。(中略)情報発信はできても、今は情報が多すぎて、誰も目を留めてくれないからだ。

(森博嗣『作家の収支』幻冬舎新書 P. 185)

 たしかに。先日、二年前に発信した記事「リレンザで発疹歴のある患者さんにイナビルを投与してもいいですか?」が日経DIのフェイスブックページで再録された。結果、2/27と2/28にランキングの上位にあって、ほんとうに多くの方に目にしていただけることができた。日経というリンクがある僕は、ほんとうに恵まれた環境にある。
 

【オリジナルなものを作ること】

 それは、一般的には「才能」という言葉で片づけられているものだ。しかし、僕はそうは考えていない。どちらかというと、「思考力」や「発想力」に近い。それも才能ではないか、と言われるかもしれないが、才能がなければ、時間をかけて考え、発想するまでひたすら待てばよい。スポーツや音楽や演劇などではこうはいかないが、文章を書く場合には、時間で解決できるということだ。

(森博嗣『作家の収支』幻冬舎新書 P. 95)

 恵まれた環境にあるからこそ、情報をただ右から左へとスライドさせるようなことだけは避けたい。情報を組み合わたり、視点を変えることでオリジナルなものを作っていく。そのために才能はなくとも時間をかける。積極的な待機といえる。とても勇気付けられる指摘だ。
 

「新しさ」を自分の頭から絞り出す

 新しさを生み出すこと、新しさを見せること、それが創作者の使命である。「使命」というと格好が良いが、もう少しわかりやすく表現すれば、「意地」だ。それが、それだけが、プライドを支えるもの、アイデンティティなのである。

(森博嗣『作家の収支』幻冬舎新書 P. 202)

 「使命」「意地」「アイデンティティ」と言い換えられているこれらの言葉を実践するためには、自分の頭で考え続けていくしかない。それが何の役に立つのか。そんなことは副次的なことであって、どうでもいい。まず表現こそがそれに先立つのだ。
 

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2016年2月19日 (金)

乱読、再読『ガラスの街』

再読、乱読、積読。
「偶然以外何一つリアルなものはないのだ」
仕事論、そして最後の一文。

ガラスの街 [ ポール・オースター ]
価格:561円(税込、送料込)


 僕みたいな乱読家にとって、本にまつわる問題は山のようにある。なかでも、本の整理という物理的な問題は避けがたく存在している。書き込み、線引き、端折りなど、なんでもありの僕の本には、古本としての価値もなく、それこそ山積みとなっている。

 片づけが進まない理由、それは時間がないからではない。時間がないというセリフは、優先順位が低いという意味でしかない。そうではなく、手にとると開いてしまうからである。再読が始まる。もちろん最初から最後まで読んでしまうわけではない。僕が残した印である書き込みや線引き、端折りを探してしまうのだ。

 今回手にしたのは、ポール・オースターの『ガラスの街』。僕の印が数ヶ所ある。まずは物語の冒頭部分。

 そもそものはじまりは間違い電話だった。真夜中にベルが三度鳴り、向こう側の声が、彼ではない誰かを求めてきたのだ。ずっとあとになって、自分の身に起きたさまざまなことを考えられるようになったとき、彼は結局、偶然以外何一つリアルなものはないのだ、と結論を下すことになる。(ポール・オースター『ガラスの街』新潮文庫 P. 5)

 「偶然以外何一つリアルなものはないのだ」ほんとにその通りだ。僕はたぶん初めて読んだその時と同じように膝を叩く。そして、主人公クインとその物語を思い出す。その物語は間違い電話から始まるのだが、じつはオースターがこの小説を書くきっかけになったのも間違い電話なのだ。

 オースターのエッセイ『トゥルー・ストーリーズ』に「私のはじめての小説は間違い電話から着想を得た」とある。そして、この事実を赤いノートブックに書きつけた、とも。オースターも僕と同じノート使いなのだ。

 『ガラスの街』には3ヶ所、僕の印が刻まていた。二つ目は仕事論的なフレーズだった。

 「いいですか。私はですね、仕事の枠を限定する必要を悟ったのです。すべての結果が決定的なものとなるよう、十分小さな領域のなかで作業を進めることが肝要なのです」(同書 P. 138)

 まさにゲーテを彷彿とさせる。「小さな対象だけを扱うように」「小さな題材を扱うのが一番だよ」「ただ君の手にあうような個々の部分だけをそれぞれ独立して表現するなら、それはきっとよいものができる」(エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫)。オースターも『ゲーテとの対話』を読んでいたのかもしれない。

 僕もこの忠告を守りつつ表現しようと心がけている。しかしそれは、同時にまた一抹の不安でもある。パスカルの言葉を借りるなら、「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」のではないか、と。

 『ガラスの街』についている最後の印は、赤いノートの最後の一文だった。

 「赤いノートにもう書くところがなくなったらどうなるのだろう?」(同書 P. 236)

 クインはノートのはじめの方での多くのページの無駄使いを嘆く。が、それは人生において必要だったのだと了解しつつ、最後の一文へとつながる。それは人間の最後の言葉を僕に連想させた。

 最後の言葉として感動とともに覚えているのは、ユゴーの『レ・ミゼラブル5』(新潮文庫)でのジャン・ヴァルジャンの言葉だ。「死ぬことはなんでもない、生きていないことが、恐ろしい」。この一文を目にするためにこの大長編をここまで読み進めてきたのだ、といった意味でも感慨深いものだった(ユゴーは「主題を見失わなければ、脱線にはならない」と居直り、歴史背景や時代の問題点を了解しないままに、物語を進めることを拒否している)。

 でも今、最後の言葉を求められたとしたら、この言葉を提出することはない。否、できそうにない。僕は“ほんとうに”生ききれているのか、そう問わずにいられない。だが、ここでまたパスカルの言葉が思い浮かぶ。「私が何も新しいことを言わなかった、などと言わないでもらいたい。内容の配置が新しいのである」。この言葉なら、薬局薬学のエディタとしての僕のノートの最後に刻まれてもいいだろう。

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