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2016年9月 2日 (金)

文章を書くときと読むとき、そしてしかるべき距離について

「結局のところ、桜の価値は、咲こうとする意志にではなくて、散る覚悟に求められる」(P. 67)


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超・反知性主義入門 [ 小田嶋隆 ]
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 最近、SNSの利用に制限をかけている。手持無沙汰なときにTwitterのタイムラインをスクロールすることはままあるけれど、積極的な発言をすることはなくなったし、フェイスブックも週に1回くらいしか開かなくなった。現実が充実しているとか、そんなことではない。僕の考えが揮発してしまうからだ。垂れ流した考えは回収されることなく、また浮かぶとも限らない。以前はすべてノートに書き付けていた。が、SNSで発信したものをわざわざノートに収めるようなことはしない。二度手間だし、発信したことで満足してしまうからだ。さらに、次のような不安もある。

 何かを思うことと、それを口に出すことの間には、しかるべき距離がある。当然の話だ。アタマの中で考えたことを、その場ですべて声に出して良いのは、幼児と独裁者だけだ。(中略)もしかすると、考えることと発言することの間の距離(ないし時間)を喪失したことが、われわれがデジタルコミュニケーションツールを手に入れたことによって獲得した副作用のうち、最も致命的なものなのかもしれない。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 30-32)

 致命的な副作用。そう、ネット上でのトラブルの元はそのほとんどがこれなのだろう。また、しかるべき距離がなければ、想像力を発揮することもできない。そして、アイデアのシーズとも言うべき塊が雲散してしまうのも同じ理由による。時間というしかるべき距離がないために、タイムラインが流れていってしまうために、その塊はついに発酵することがない。これはじつにもったいない、と自分のノートをふりかえったときに気がついたのだ。

 アイデアがある程度の形になり、これはおもしろい、と思うものを記事にする。この時点で気をつけていることがある。意識していても、強力な後ろ盾や虎の威的なものがあったときにはついつい忘れてしまう。それは啓蒙的な記事に終始してしまうことだ。そして、しまったと後悔することになる。

私が啓蒙的な運動をしている人々に反発を頂くのは、彼らが、人々をバカにしているように見えるからだ。彼らは、情報を告知することで世界が変えられると思っている。告知と宣伝で、人々を動かせると考えている。その前提で私はうんざりするのだ。なぜなら、彼らの前提が暗黙のうちに語っているのは、自分たち以外の人間が、正確な情報を知らないという認識だからだ。彼らは、そういう無知な大衆に福音を知らしめることが、世界の様相を改善するための第一歩だと信じている。その裏には、人々が無知で、愚かで、享楽的で、近視眼的だという思い込みがある。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 174)

 そんなこと思ってはいない、そうはいってもこの手のことは読み手がどう感じるかなのだ。出来のよい記事が書けた、といった自信のあるときにほど気をつけないといけない。

 読み手はじつに多様な環境にある。にもかかわらず、主語を一つにして啓蒙的な情報活動をしてしまっては、そう思われても致し方ない。日本語の特徴の一つに、主語の省略がある。そして、省略された主語の有力な回答は“私たち”だ。だから、その“私たち”に混ざりたくない、と思われないようにメッセージを届ける。それは記事の内容の重要性とはなんら関係がないことなのだ。

 だが、とも思う。難しい問題に対して、結局のところどうなんだ、お前の言いたいことは何なのだ、答えになっていないのではないか、といった意見には僕は賛同しない。

 でも、私に言わせれば、登録無料のウェブマガジンの中に「答え」が書かれていると思っている時点で、その人間はビジネスパーソンとしてはほぼ使いものにならない。もちろん、…役に立つ記事が無いわけでもないし、目からウロコの落ちるタイプのテキストが皆無だというのでもない。

 ただ、文章を読む際の基本姿勢として、答えを探しに行くタイプの読み方は、根本的に間違っているぞ、ということだけは申し上げておきたいのだ。文章は楽しむために読むものだ。楽しく読んで、面白く時間をツブせればそれで十分。そういう中で、結果として、後になって振り返ってみて、あの時に読んだあの文章は、自分の中でこんなふうに役立っていた、というケースがあるかもしれない。

 と、そういうお話なのであって、ページを開く前の段階から、何か役に立つことを取り入れるために本を読むみたいな態度は、明白な間違いではないのだとしても、人としてあさましいマナーだと思う。

(小田嶋隆『超・反知性主義入門』日経BP社 P. 250-251)

 まあ、こういった話は通じない人には通じない。あなたがお金を払って手に入れた書籍に対しての書評ならば、話は別だ。著者は対価に、タイトルに見合うものを提供する義務があるだろう。しかし、無料の文章を読んで、その文章は失格だ、というのは当たらない。

 ましてや、新しい情報がなければ意味がない、というのもどうかしている。僕らの世界の基礎的な部分は「変わらないこと」によって保たれ支えれているのだ。

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