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2015年6月 5日 (金)

人間が共同的に生きてゆくためには「急激に変化しない方がよいもの」がたくさんある

「集団を定常的に保つ働き」の重要性が
今の社会では忘れられている(p. 93)



【connecting the dots】

 自分が今していることの意味は今はわからない。人はいつでも計画的にものごとをしたがる。まずこれをやって、それからこれをやって、これをやると、あそこに到達するだろう。そういうふうに考える。でも、実際には現時点から予測的に未来を見通すことはできない。自分が今していることの意味は事後的に振り返った瞬間にわかる。後ろを振り向いたときに(looking backward)はじめて「点がつながる」。

(内田樹、釈徹宗『日本霊性論』NHK出版新書 P. 49)
 
 あのプロセスは、あのときの出会いは、あの出来事は、あることを達成したのちに、事後的に振り返った瞬間に、その一つひとつの必然性がわかるという。それらはあらかじめ定めていた計画や目標などでは、予断では、決してないのだろう。むしろ、そういったものに縛られているとしたら、それは人生にとってやっかいな障害になるかもしれない。

 予断に縛られず、偶然進んだその道で、そうするしかなかった過程において、予想外のことを乗り越え、受け入れていく。「偶然以外何ひとつリアルなものはないのだ」とポール・オースターは言った。僕もそう思う。そもそも人と人の出会いなんてすべて偶然だ。

 もう一つセリフを思い出した。「生きているというのはすなわち、思い出すことなのだ」(@カポーティ)。そうやって思い出す事柄は、僕という人間を形成するうえで、きっと点でつながっていることなのだと思う。
 
【考える習慣を身につける】

 この「グレーゾーンには専門的知見を備え、そのために心身を整えたものが立たなければなりません。(中略)そのためにこの境界線には裁き人がおり、教師がおり、医療者がおり、聖職者がいる。僕はそういうふうに考えています。そして、この境界線を守る人たちのことを「歩哨」(センチネル、sentinel)と名づけています。(中略)歩哨が立っていたおかげで実は「歩哨がいなければ起きたかもしれない」無数の災厄が回避された。でも、誰もそれを知らない(なにしろ、災厄は起きなかったのですから)。歩哨自身も自分がそれほどの功績を果たしたことを知らない。「何もなかったよ」と報告して「はい、ご苦労さん」と言われて終わりです(それさえ言われないかもしれません)。でも、そのような歩哨たちの、称賛によって報われることのない奉仕によって集団の安寧は保たれている。

(内田樹、釈徹宗『日本霊性論』NHK出版新書 P. 90-93)

 司法と医療と教育に対しては政治からも市場からもメディアからも激しい攻撃が仕掛けられています。告発自由はそれぞれに違いますが、言い分は一緒です。「社会の変化に即応して制度が変化していない」です。これに関してはすべての論者が一致しています。「社会的共通資本は急激な変化から社会を守るためにわざわざ惰性的に制度設計してあるのだから、それに対して『変化が遅い』という批判を加えることは筋が違う」というかたちで制度防衛の論を立てる人をぼくは見たことがありません。

(内田樹、釈徹宗『日本霊性論』NHK出版新書 P. 99)


 いまの世の中では、「エビデンスが示されないものは端的に存在しないものに分類される」ことになる。ということは歩哨の働きも存在しないものに分類されてしまう。

 薬剤師の業務というのは、この歩哨そのものだ。副作用を未然に防いだり、相互作用を回避したりすることで、災厄は起こらないわけだから。それを評価することは難しいのだろう。いわんや患者に対して、医師の間違いを指摘して、患者の不安を煽るような、医師と患者の信頼関係を損なうようなことはするはずもない。むしろ、不安を与えないようにふるまうのが常識だ。目に見える行為は副作用の早期発見くらいだろうか。

 僕の嫌いなフレーズ、それは「生き残る、生き残れない」といったものだ。この言葉の意味は、要は社会の変化に応じなさい、変化しなさいということに他ならない。もちろん、変化が必要なものもあるだろう。だがその前に、前提の話がすっぽ抜けているのではないだろうか。つまり、変化していいものと変化してはいけないものがある、といった議論の前提ともいうべきものが。なぜ現在のような制度設計になっているのか、といった歴史の振り返りともいうべきものが・・・。

 歩哨の話のところでサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が引用されている。なるほど、ホールデン少年は歩哨の仕事をしたかったのか。

 「ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういいうものになりたいんだ」。

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コメント

薬剤師の始まりを、フリードリヒの時代に遡れば、なるほど、薬剤師は毒殺防止機構としての役割なので、優秀な歩哨に例えることもできる。

その意味で、現代は、毒殺から副作用等防止へと薬剤師の医薬分業上の役割が変化したという文脈だと思われるが、ならば、毒殺防止ほど明確、明快な役割を果たしうる機構となっているだろうか。

前提条件が違いすぎる。現代医療においては、悪意を持った(毒殺のような)医療行為は一般的には無く、通常は善意で処方は書かれる。
残念ながら、「善意の処方」の結果、新薬発売後すぐに「容易に予測されそうな副作用」により多数の死者を出している現実。

仰るような「歩哨の役割」=副作用防止があまりにも脆弱とは言えないか。脆弱すぎて社会からは認知されないほどに。(法廷にも立たされていない)例えば「適応症はキッチリ押さえてあるが、果たしてこの患者に、こんなに必要だろうか?」というような多剤投与の問題や新薬偏重の問題に、薬剤師は「歩哨である事を期待されている職種」なのか、そ保険薬局業務の標準手順の中に、そう規定され、実行されているか。もしそうなら、何故、SGLT2であんなに分かりやすい死者を出す?プラザキサでは?危険が予知できなかったなどと言わせない。しかし薬剤師の仕事が一義的に副作用から患者を守る「歩哨」であると言うなら、ここに責任を問われるべきであろうに。

フリードリヒの時代と前提が違っている現代、「善意の処方」に囲まれた中で「私の仕事は毒殺防止機能である」と言ってしまえば、チェックを怠ける人間が大量に出る。怠けても問題が出ないから。そういう怠け者は「生き残れない」になってしまわないか。

そういう怠け者は現実に居た。

そして、薬歴未記載17万件でも目立った害は報告されなかった。大概そうだ。悪意は無いのだから。
薬剤師が「歩哨」だと言い張り、「薬歴」が歩哨の大切なツールとすれば、「歩哨としての役割を果たしていなくても、現実に何も起こっていないではないか=薬剤師不要論=生き残れない」に陥ってしまう危険がある。

私は、薬剤師は「歩哨」ではないと思っている。

医師や看護師と共に「よりよい薬物療法を実現する」側の人間として、処方設計、投与量調整、患者観察、処方規約作成などを行うのが薬剤師だと思っている。離れて別に居る存在ではない。

投稿: 歩哨でいいのか? | 2015年6月 8日 (月) 02時10分

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