« ハンドリング問題を解決するジェネリック | トップページ | ランタス注ソロスターの拡大鏡 »

2012年8月 3日 (金)

メッセージのレベルと宛名

メッセージのレベルを私たちは識別できる。
「問題はコンテンツではなく、宛名なのです」

【送料無料】街場の読書論 [ 内田樹 ]

【送料無料】街場の読書論 [ 内田樹 ]
価格:1,680円(税込、送料別)

内田樹『街場の読書論』太田出版

【書物の「出力」性】

 
 爾来私は書物について「出力性」を基準にその価値を考量することにしている。
 小説だってそうである。読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友達に手紙が書きたくなった」というのは、出力性の高い書物である。 (同書 P. 80)

 「出力性の高い書物」というのは、たしかにある。それは人間の考え方、習慣、行動を変える。そういう基準で本棚の並べ方をきめるのもおもしろいかもしれない。案外、自分の原点や想いといったものが再確認できそうだ。

 そして「出力」こそが人間のパフォーマンスを変える。

 パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。(同書 P. 78)

 つまり同じような内容であっても、出力性の高い書物で学ぶほうがよいということだ。

 このことは書物に限らない。行動変容を与えてくれるような人を師とし、行動変容を与えられるような薬剤師を目指す。人間的成長、職業的成長の本質がそこにある。

【「話を簡単にすること」を自制する】

 たしかに、「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも、爽快感や全能感を欲するのは、私たちが賢明で強い人間だからではなく、あまり賢明でなく、それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。
 もし、私たちにいくらかでも人間的向上心があるなら、「話を簡単にすること」を自制するということも、たまには必要だろうと私は思う。(同書 P. 217)

 覚えておきます。私たちは原因と結果をよく取り違えるらしい。

 たしかに話を簡単にして、ありがちな問題に収斂させたり、表向きな解決を図ったりすることが、投薬の場面などでも多々ある。

 けれども、話を簡単にすることを自制しても、おそらく患者は困らない(だってそれは本当の問題や解決ではないのだから)。むしろ、そのときは宙ぶらりんな状態のほうが、本当の問題から遠ざからなくて済む。

 だから、こちらが爽快感や満足感を欲しなければいい。自己満足に陥ってはならない、ということだ。

【メタ・メッセージとメッセージの宛名】

 窃盗を疑われている労働者がいた。そこで毎夕、工場から帰るとき、警備員たちは彼が押している手押し車を丹念に調べた。だが、何も見つからなかった。手押し車はいつでも空だった。実は彼は毎日手押し車を盗んでいたのである。
 「手押し車の中身」がメッセージ、「手押し車」をメタ・メッセージと読み替えると、この笑い話の含意がわかる。
 メッセージの受信者たちは「手押し車の中」を丹念に調べ、その信頼性や真理性を精査して、「変なもの」があったら、それを取り押さえようと身構えている警備員に似ている。そこには何も怪しげなものは見つからない。「じゃあ、いいよ。通りなよ」と言って警備員はメタ・メッセージには手つかずのまま「検閲」を通過させてしまう。
 (中略)
 私が言いたいのは、もし、メッセージの送受信においてもっとも効率的に仕事をする人がいるとしたら、、つまり自分の言いたいことをもっとも手際よく、誤解の余地なく人に伝えることができる人がいるとしたら、その人は、自分のパーソナルなメッセージを手押し車のかたちにして、検閲をくぐり抜けるだろうということである。(同書 P. 364-366)

 私たちは「手押し車の中身」、つまり「メッセージ」こそがたいせつだと思っている。しかし、「情報そのものが届かないことがあっても、『情報についての情報』は届く」。この「情報についての情報」が「手押し車」、つまり「メタ・メッセージ」だ。「メッセージの読み方についてのメッセージ」のことだ。では、なぜそれは届くのか。

 それは私たちが誰かの発した言明が「ただのメッセージ」なのか「メタ・メッセージ」なのかを本能的に識別できるからである。(同書 P. 364)

 こういうルールで私たちのコミュニケーションは成立しているらしい。

 であるならば、問題はひとつ。どうすれば「自分のパーソナルなメッセージを手押し車のかたち」にすることができるかである。

 この問いのひとつのヒントが、あとがきにある。

 「自分宛てのメッセージ」には必ず自分の快不快にかかわる「出来事」が付随する。それだけは経験的に確かだからです。
 人間が生物として最初に発達させた「コミュニケーション能力」はメッセージのコンテンツを理解したり、その真偽の理非を判定したりする能力ではなくて、そのメッセージが「誰に宛てたものか」を判別する能力だったのではないかと僕は思います。
 自分宛てのメッセージに対しては、まだ言語運用能力をもたない赤ちゃんでさえ感応することができる。(中略)
 どんなに立派な内容のこと、どんなに政治的に正しいこと、どれほど美しい言葉で語っていても、受信者が「あ、これオレ宛てのじゃないわ」と思えば、メッセージは空しく空中に消え去るしかない。(同書 P. 406-407)

 宛名のないメッセージはそもそも「検閲」さえ受けないのだろう。手押し車に宛名があれば、その中身が理解されなくても、この手押し車は自分宛てということだけはわかる。

 メッセージには宛名が必要である。この自覚が足りない。だから何も伝わらない。

 この部分はよくわかった。「想い」が必要だというのもこれと同じなのかもしれない。

にほんブログ村 病気ブログ 薬・薬剤師へ

薬剤師ブログタイムズ ブログランキング参加中! クリックしてこの記事に投票

|

« ハンドリング問題を解決するジェネリック | トップページ | ランタス注ソロスターの拡大鏡 »

(16) 今月の1冊(ひのくにノ本棚)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: メッセージのレベルと宛名:

« ハンドリング問題を解決するジェネリック | トップページ | ランタス注ソロスターの拡大鏡 »