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2012年8月31日 (金)

「自分の実力は自分の責任で磨く」

服薬ケア研究会からお知らせです。
服薬ケア研究会第2回大会と鹿児島での実践講座のご案内(*^_^*)

【人間そのものを高めたい方へ】

服薬ケア研究会第2回大会

 昨年服薬ケア研究会第1回大会が大盛況のうちに開催されました。今年は第2回大会を、神戸にて開催いたします。

 今回のテーマは、「本質の追求~限りなき成長のために~」とし、服薬ケアが目指す限りない人間的成長への挑戦について、様々に語り合ってみたいと思います。

 この大会は、すべての医療者、そして医療の本質に興味のある医療消費者の方が対象となります。本物の医療者とは何かを一緒に探求しましょう。どうぞ多くの皆様のご参加をおまちしております。

   ◆ 日時:平成24年9月23日(日) 10:00~17:00

   ◆ 場所:兵庫県民会館 パルテホール

   詳しくはこちら

【文献を読めるようになりたい方へ】

第7回服薬ケア実践講座

 昨年鹿児島においては、医療統計学と疫学の基礎と、イメージで捉える薬物動態学を学びました。今年度は「服薬ケア中級講座」と銘打って、昨年学んだ様々な基礎知識が、実際の文献などにどのような形で応用さえているかを学びます。

 英語論文の要約から、統計学の基礎で学んだ考え方がどのように用いられているのかを実際に学んだり、添付文書やインタビューフォーム、新薬の承認申請資料などから、統計学の知識や薬物動態学の知識を用いて、その薬がどんな特徴があるのかを見て行きます。

 
   ◆ 日時:平成24年9月30日(日) 10:00~16:00

   ◆ 場所:鹿児島市勤労者交流センター(よかセンター) 第1会議室

   詳しくはこちら

人格も専門技術も「自分の実力は自分の責任で磨く」しかありません。

 良き医療者として医療現場で信頼を集めるためには、結局自分自身を常に向上させる努力が不可欠になってきます。自分自身の人生にまともに取り組むことが必要なのです。(中略) 自分自身が充実して、光り輝いている人生を送るということは、それ自体が自分の喜びであると思うのです。楽しみであると思うのです。自分自身の人生をしっかりと生き抜いている人こそ、他人の人生に味のあるアドバイスができるのではないでしょうか。

 (岡村祐聡『薬剤師って何する人?』服薬ケア研究所 P. 29)

神戸、鹿児島でお会いしましょう (^_^)/

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2012年8月 3日 (金)

メッセージのレベルと宛名

メッセージのレベルを私たちは識別できる。
「問題はコンテンツではなく、宛名なのです」

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価格:1,680円(税込、送料別)

内田樹『街場の読書論』太田出版

【書物の「出力」性】

 
 爾来私は書物について「出力性」を基準にその価値を考量することにしている。
 小説だってそうである。読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友達に手紙が書きたくなった」というのは、出力性の高い書物である。 (同書 P. 80)

 「出力性の高い書物」というのは、たしかにある。それは人間の考え方、習慣、行動を変える。そういう基準で本棚の並べ方をきめるのもおもしろいかもしれない。案外、自分の原点や想いといったものが再確認できそうだ。

 そして「出力」こそが人間のパフォーマンスを変える。

 パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである。(同書 P. 78)

 つまり同じような内容であっても、出力性の高い書物で学ぶほうがよいということだ。

 このことは書物に限らない。行動変容を与えてくれるような人を師とし、行動変容を与えられるような薬剤師を目指す。人間的成長、職業的成長の本質がそこにある。

【「話を簡単にすること」を自制する】

 たしかに、「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも、爽快感や全能感を欲するのは、私たちが賢明で強い人間だからではなく、あまり賢明でなく、それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。
 もし、私たちにいくらかでも人間的向上心があるなら、「話を簡単にすること」を自制するということも、たまには必要だろうと私は思う。(同書 P. 217)

 覚えておきます。私たちは原因と結果をよく取り違えるらしい。

 たしかに話を簡単にして、ありがちな問題に収斂させたり、表向きな解決を図ったりすることが、投薬の場面などでも多々ある。

 けれども、話を簡単にすることを自制しても、おそらく患者は困らない(だってそれは本当の問題や解決ではないのだから)。むしろ、そのときは宙ぶらりんな状態のほうが、本当の問題から遠ざからなくて済む。

 だから、こちらが爽快感や満足感を欲しなければいい。自己満足に陥ってはならない、ということだ。

【メタ・メッセージとメッセージの宛名】

 窃盗を疑われている労働者がいた。そこで毎夕、工場から帰るとき、警備員たちは彼が押している手押し車を丹念に調べた。だが、何も見つからなかった。手押し車はいつでも空だった。実は彼は毎日手押し車を盗んでいたのである。
 「手押し車の中身」がメッセージ、「手押し車」をメタ・メッセージと読み替えると、この笑い話の含意がわかる。
 メッセージの受信者たちは「手押し車の中」を丹念に調べ、その信頼性や真理性を精査して、「変なもの」があったら、それを取り押さえようと身構えている警備員に似ている。そこには何も怪しげなものは見つからない。「じゃあ、いいよ。通りなよ」と言って警備員はメタ・メッセージには手つかずのまま「検閲」を通過させてしまう。
 (中略)
 私が言いたいのは、もし、メッセージの送受信においてもっとも効率的に仕事をする人がいるとしたら、、つまり自分の言いたいことをもっとも手際よく、誤解の余地なく人に伝えることができる人がいるとしたら、その人は、自分のパーソナルなメッセージを手押し車のかたちにして、検閲をくぐり抜けるだろうということである。(同書 P. 364-366)

 私たちは「手押し車の中身」、つまり「メッセージ」こそがたいせつだと思っている。しかし、「情報そのものが届かないことがあっても、『情報についての情報』は届く」。この「情報についての情報」が「手押し車」、つまり「メタ・メッセージ」だ。「メッセージの読み方についてのメッセージ」のことだ。では、なぜそれは届くのか。

 それは私たちが誰かの発した言明が「ただのメッセージ」なのか「メタ・メッセージ」なのかを本能的に識別できるからである。(同書 P. 364)

 こういうルールで私たちのコミュニケーションは成立しているらしい。

 であるならば、問題はひとつ。どうすれば「自分のパーソナルなメッセージを手押し車のかたち」にすることができるかである。

 この問いのひとつのヒントが、あとがきにある。

 「自分宛てのメッセージ」には必ず自分の快不快にかかわる「出来事」が付随する。それだけは経験的に確かだからです。
 人間が生物として最初に発達させた「コミュニケーション能力」はメッセージのコンテンツを理解したり、その真偽の理非を判定したりする能力ではなくて、そのメッセージが「誰に宛てたものか」を判別する能力だったのではないかと僕は思います。
 自分宛てのメッセージに対しては、まだ言語運用能力をもたない赤ちゃんでさえ感応することができる。(中略)
 どんなに立派な内容のこと、どんなに政治的に正しいこと、どれほど美しい言葉で語っていても、受信者が「あ、これオレ宛てのじゃないわ」と思えば、メッセージは空しく空中に消え去るしかない。(同書 P. 406-407)

 宛名のないメッセージはそもそも「検閲」さえ受けないのだろう。手押し車に宛名があれば、その中身が理解されなくても、この手押し車は自分宛てということだけはわかる。

 メッセージには宛名が必要である。この自覚が足りない。だから何も伝わらない。

 この部分はよくわかった。「想い」が必要だというのもこれと同じなのかもしれない。

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