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2012年7月 6日 (金)

「老い」と「死」について

「老い」と「死」について考える。
今月の1冊のはずが3冊になってしまった…。

 ベストセラー『大往生したけりゃ医療とかかわるな』を患者にすすめられる。だが、人からすすめられて本を読むことはめったにない。やはり出会いには時期がある。『俺に似たひと』を読了後に、手にとることに。そういう順番だったんだと、ひとり得心する。

【「老い」を「病」にすり替えている】

 いったい何のために、手術なんかしたのだろうと思う。
 俺もドクターも、何か重大なことを見落としているのではなかろうか。
 今の父親に対してすべきことは、もっと別のことであったはずではなかったのか。
 病を治すという行為に意味があるのは、あくまでも病の先に普段の生活が待っていることが前提である。あるいは、とりあえず緊急の危機から脱出するということ。しかし、このときの父親にとっての誤嚥性肺炎や歩行困難やせん妄は、果たして「病」だったのだろうか。
 病-健康、異常-正常といった俺たちが生きている世界の文脈とはまったく別の文脈のなかに、父親は入り込んでしまっていたのではないだろうか。
 これこそが「老い」というものであり、「老い」とは病とか異常とかいうよういな文脈とは別の、人間の生涯のなかの一場面なのではないだろうか。
 そして、そのことについて俺は何も知ることができないのではないだろうか。

 (平川克美『俺に似たひと』医学書院 P. 181-182)

 著者の父親が入院中に胃ろうの手術を行う。しかしその後の状態は、前進するどころか後退しているようにすら感じてしまう。そんな場面での著者の考察だ。

 胃ろうについて、著者はずいぶんと悩んでいる。そして「胃ろうでも、嚥下障害が改善できたら、口でも食べられるようになりますよ」という言葉に賭ける。しかし術後に好転することはなく、それは「病」ではなく「老い」として捉えるべきものだったのではないかとふりかえっている。

 なぜ、それらを「老い」ではなく「病」として扱ってしまうのか。

 なぜなら「老い」は一方通行で、その先には「死」が待ち構えています。 
 
一方、「病」には、回復の可能性があるからです。 

 (中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』幻冬舎新書 P. 170)

 だから、「老い」を「病」にすり替えてしまう。「病」ならまだ打つ手がある。「病」ならなんとかなるかもしれない。このすり替えの結果が、医療者側のなんとかしてあげたい、家族のなんとかしてほしいという気持ちにつながっていくことになる。

 この考えの前提にあるものが「観念としての死」への捉え方だ。

 生活の中から「死」が排除された現代では、自分の死を誰も考えていない。さらに、そもそも自分の死を経験することはできない。つまり、自分の死を知らない。観念としてだけの「死」。だから「死」が怖ろしいものになる。

 よって、この「死」を考えることこそが、この問題の解決策になりうるのだ。

【どうやって「死」を考えるか】

 漠然と「死について考える」といっても、身近なところでの体験でもなければ難しい。繰り返すが、そもそも自分の死は経験できない。

 死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方が無いのです。(中略)極端に言えば、自分にとって死は無いという言い方が出来るのです。そうすると「(自分の)死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題、悩みと言えるかもしれません。これは「口」に似ています。

 (養老孟司『死の壁』新潮新書 P. 165-166)

 なるほど、実体のない「自分の死」も「口」もほんとうに観念的なものだ。ということは、考えるべきは「二人称の死」と「三人称の死」となる。

 自分の死ではなく、周囲の死をどう受け止めるか、ということのほうが考える意味があるはずです。

 (同書 P. 167)

 いずれにしても、そういう周囲の死を乗り越えてきた者が生き延びる。それが人生ということなのだと思います。そして身近な死というのは忌むべきことではなく、人生のなかで経験せざるをえないことなのです。それがあるほうが、人間、さまざまなことについて、もちろん、自分についての理解も深まるのです。だから死について考えることは大切なのです。

  
 (同書 P. 181)

 養老先生の文章はリーダブルだが難しい。たしかに周囲の死を考えれば、自殺や殺人がいけないということはよくわかる。

 
 でも、自分の死は無い、と言われても「無い」が「有る」なんて、どうもしっくりこない。ほんとうに自分の死は考えなくていいのだろうか。それは観念だ。社会や国家と同じだ。でもそれらは僕らに大きく作用しているではないか。

 そして自分の死を視野にいれていないからこそ、「老い」を「病」にすり替え、あがいてしまうのではないか。

 やっぱり、自分の死を考えることには意味があるのではないだろうか。

 「自分の死」を考えるのは、「死に方」を考えるのではなく、死ぬまでの「生き方」を考えようということなのです。
 すなわち、いのちの有限性を自覚することで、「今、こんな生き方をしているが、これでいいのか」と現在までの生活の点検や生き方のチェックをし、もし「いいとはいえない」というのなら、軌道修正を、その都度いこうということのなのです。

 (中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな』幻冬舎新書 P. 148)
 

 「逝き方」ではなく「生き方」を考える。これこそが、自分の死を考える効用というわけだ。

 
 問題は、健康は、人生を豊かに生きるための手段であるはずなのに、それが目的になってしまっている点にあります。本来、「健康は、こういう生き方をするために、この程度必要」というものでしょう。それが「生き方」もないのに、「健康」だけを追い求めることに、どれほどの意味があるのでしょう。

 (同書 P. 174)

 そして人生の後半においては、「老いる姿」「死にゆく姿」を認める。さらに晩年には、次の世代に伝え、残していく。

 年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。

 (同書 P. 7)

 老いが病にすり替えられ、死が排除されている今の社会において、いちばん必要なことかもしれない。

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